朝からドキドキ、ワクワクしていた。大好きな60年代のアメリカ車を見て、乗って、解説するからだ。しかも2台! そして、その2台ともボクにとっては強い思い入れがあり、実際に同じモデルを過去に愛車として所有したこともある。だからなんとなく、昔の恋人に会いに行くのに近い感覚があって、なんとも言えない妙な懐かしさというか、期待感というか……
振り返れば、もう40年以上も同じことを繰り返しているボクだけれど、やっぱりこの子たちが心の底からから大好きだし、同時にこの仕事に誇りを感じている。今回はもしかすると、取り留めもなく長い話になってしまうかもしれないが、どうか最後までお付き合い戴きたい。
冒頭で申し上げたとおり、マスタングには特別な思い入れがある。
初めてそれを見たのはたぶん正規輸入された1965年(昭和40年)の晴海の東京モーターショーだったと思うが実はあまり記憶にない。指を折って数えるとボクが小学校の2年生の時の話だから無理もないかもしれない。で、はっきり記憶しているのは1968年、5年生の時の話で、それは実車ではなくスクリーンの中での出会いだった。
母親に連れられて行った新宿ピカデリー、複雑に展開するストーリーはまだ幼かったボクにはちょっと理解し難かったけれど、坂道だらけの街でカーチェイスをするダークグリーンのマスタングの姿にカルチャーショックを覚え、映画館を出た後もそのダイナミックなフォルムとサウンドが脳裏に焼きついたまま他のことは何も考えられなかった。そう、他でもない!スティーブ・マックウィーン主演の『ブリット』である。
ハリウッドでも初めて小型の車載カメラを導入してドライバーの主観で撮影したというこの作品はカーアクション映画の名作としても有名だが、決して長いものに巻かれない男の生き様を含めてそのままボクのバイブルとなった作品だ。
ところで先程からボクは”マスタング”と記しているが当時の日本では”ムスタング”と発音するのが普通であり、この映画を観て以来ボクにとって特別なクルマとなった。そして「大人になったら絶対ムスタングに乗ってやろう!」と決意したのだった。
それが現実となったのは、”ブリット”のロードショーからちょうど10年後、78年の秋でボクが20歳のときの話だ。
3代目となるモデルが発表されその79年型マスタングの写真が当時の『カーグラフィック』のグラビアを飾ったのだが、同時に簡単なヒストリーが紹介されて第1世代の姿も一緒に載っていたのだ。その頃入り浸っていた喫茶店でそのページを見ながら改めて子供の頃から抱いていたマスタングへの思いをマスターに告げると、彼がとんでもない情報をくれたのだ。比較的近所の中古車センターの隅に多分それと同んなじモデルが20数万円で売られていたと……「でもかなりボロかったけどね」と彼は付け加えたが、ボクはもちろんその足で教えられた店に直行していた。
カマロ、カトラス、GTOと魅力的なクルマが並べられた中古車センターの一番後ろの隅にそれはあった。
65年型のファストバックだったが、白いボディはところどころペイントが剥がれ落ち、その箇所には結構な勢いでサビも出ていたし、そもそもサスペンションに異常があるのか車高は左右でハッキリと違いが分かるほど傾いていた。ドアを開けるとなんとも表現し難い匂いが鼻をつく。よく見ると運転席の後方には雨水が溜まりボウフラが泳いでいる。
ウィンドシールド越しに掲げられたプライスボードには28.9万円の文字があったが、ちょっと遊び人風でカッコイイ店員が近寄って来てすかさず「18万に負けてあげるよ!」と言った。そしてエンジンを掛けてくれて「ATがちょっと滑っているけど、オイルを換えたらだいぶ良くなると思うよ」なんて結構無責任なことを言っている。でもその時既にボクは決心していた。何としてでもこれを買って直してやろう……と。傾いた状態でその情けない顔がボクに何かを訴えているように思えて仕方なかったからである。
結局、その場でなけなしの1万円札を1枚ポケットから取り出して手付金を払い、残りの17万円は当時導入されて間もないオートローンで支払うことにした。
次の週には例の喫茶店のマスターに手伝って貰って家のガレージまで牽引し、ボクにとって初めてのアメリカ車、初めてのレストア・プロジェクトがスタートしたのである。
ここから先のことを詳しく書き始めたらマジできりがないので要約させて戴くが、エンジンもトランスもサスペンションもブレーキも冷却系統も電気系統もボディもインテリアも殆ど全部に手を入れなければダメな状態の野生馬(駄馬かな?笑)を復活させるための執念とも言える日々はおよそ2年続いた。
レストアといっても予算も無いボクにはパーツだってろくに買えないわけで、自分で勉強してその互換性を知り、解体パーツを使って直すしか手段はなかった。幸いアメリカ車専門の解体屋が東京に下町にあって、何度か通ううちにそのオヤジと親しくなっていろんなことを教えられた。その解体屋には同じ年代のマスタングが何台か積み上げられていたし、フォードディーラーが廃棄処分した新品パーツをも引き取っていた関係でボクにはまさに宝の山だったのだ。
ただし、解体屋は日曜日が休みだったので、ボクはいわゆるフツーの就職が出来ず、このレストアプロジェクトを優先出来る仕事だけを選んだ。とりあえず”Photographer”という肩書きの名刺は作ってあったが、それで安定して仕事が入ってくるわけもなく、映画やTVのスタントドライバーをやりながら劇用車のコーディネイトをも手掛け、毎日アメリカ車のことを学び、弄りながらブローカーとしてもいつの間にか一丁前になっていた。
とにかく明けても暮れてもポンコツのアメリカ車たちと格闘を続ける日々で、解体パーツを買うために食費をケチって1ヶ月以上”どん兵衞”だけを食い続け、なんとなく掌が黄色くなってしまったこともある。それでも2年後に美しく蘇った65マスタングはボクにとって誇りだったし、ひとつ事をやり遂げた達成感と充実感の象徴でもあった。
ボクはその姿をどうしてもクルマ雑誌のグラビアに飾りたくて、当時創刊されて間もなかった『CAR & DRIVER』(日本版)の編集部に飛び込み営業をして実現させたのだった。
さて、随分と自分の話が長くなってしまったが、ここでちょっとマスタングの歴史も解説してみよう。
センセーショナルなデビューは1964年4月17日、仕掛け人はのちにFoMoCoの社長に就任したリー・A・アイアコッカだった。
フォードは過去にコルベットに対抗してサンダーバードを誕生させたが、その時の経験でアメリカ人の多くが望んでいるのは真のスポーツカーではなく、そのイメージを前面に打ち出したスポーティな4座のクーペもしくはコンバーチブルなのだと考えていた。だからこそサンダーバードも誕生から4年目にして2座をやめて4座へと変身を遂げたのだが、新型のスペシャリティカーには更に軽快でアクティブな要素と若者にもアピール出来るリーズナブルな価格設定とオプションを自由に選べるシステムを導入したのだ。
ファルコンをベースとしたコンパクトなボディながら、ロングノーズ&ショートデッキのスタイリッシュなフォルムを具現化させてマスタングは大ヒットを記録した。64年の途中で発表されたこともあってデビューイヤーは64・1/2と表記されたが、続く65年型では年間約55万9000台、66年型では約60万7000台という驚くべき生産台数をマークし、その記録は半世紀以上が経過した現在でも破られていない。
準搭載エンジンはデビュー時には170cu.in.のちに200cu.in.に拡張されたインライン6だったが、オプションとして260cu.in.のちに289cu.in.に発展したOHVのV8が用意され、現在では殆どのファンがそれを好んで求める傾向にある。
ボディスタイルはオーソドックスなノッチバックタイプの2ドアHTとコンバーチブルでスタートし、65年型からは流麗なルーフラインを誇るファストバックが追加された。基本的なデザインは66年型までそのまま継承され、デトロイトの他のメーカーから多くのライバル達が出現してくるきっかけを作ると同時に世界中のクルマたちにも大いなる影響を与えた。
ちなみにアメリカではその名のとおり”ポニーカー”という全く新しいジャンルを確立したし、小型のスペシャリティカーとしてのムーブメントは明らかに日本にも届いており、例えばセリカやギャランGTOなどはこのマスタングを意識して生まれたクルマと言えるのだ。
今回クローズアップしたのは66年型のハードトップで、言ってみれば最もプレーンなスタイルのマスタングだ。
搭載するエンジンは289の2バレル・キャブレター仕様でカタログ数値は200hp@4400rpm、282lbs-ft@2400rpm。スペック的にはこの後に続々と出現したハイパフォーマンス・モーターと比べたら大人しい性格と言わざるを得ないが、それでもストレスなど一切感じさせることなく軽快にパワフルに走れるFoMoCoスモールブロックV8の傑作といえるだろう。
なお、現車は美しいコンディションを保っているだけでなく、随所にオリジナルパーツがそのまま使われているところに感心させられる。
実はマスタングは現在アメリカのレストアラーたちにとっても非常にポピュラーな存在であり、殆どのパーツがリプロダクトされている。よって美しくレストアすることだけなら決して難しい話でもないのであるが、リプロダクションパーツというものはオリジナルパーツと見比べるともうひとつクローム等の質感に深みがなかったりマテリアルの微妙な違いによって何となく軽い感じだったりしてしまうのだ。更にリプロパーツではオリジナルとどこかデザインが異なっていたり、そもそもモノによっては未だにリプロパーツがリリースされていなかったりもして、要するにマニアの間ではたとえUSEDであってもオリジナルが珍重されるケースが珍しくないのだ。
この個体に於いてはインテリアのダッシュ周りのデコレーションやゲージ類、エアコンのエバポレーターと吹き出し口のユニット、エンジンコンパートメントでもバルブカバーやエアクリーナー・ハウジング、エアコンのコンプレッサー等がオリジナルパーツであり非常に好感が持てた。
さて、初代のマスタングはアメリカ本国で現在ヒストリックカーとして、またコレクターズアイテムとしてのバリューが非常に高騰している。
先程解説したとおり、新車時には爆発的に売れたモデルだけあって例えば80年代にはUSEDカー市場にもモノが溢れており、アメリカではハイスクール・スチューデントたちのクルマとしても人気を集めたし、日本でも比較的安く買えた時代があった。実際にボク自身も最初にレストアしたファストバック以外に何台ものマスタングを同時に所有していたことがあったくらいだ。
しかし、徐々にUSEDカー市場からその姿が消え、ハリウッドスターを中心としたセレブたちが注目するようになってからは事態が急激に変わったのだ。高額な費用を掛けてレストアするケースも増え、そんなマスタングたちが映画のワンシーンにちょっと顔を出したりすることで益々人気が高まりバリュー高騰に拍車をかけた。
いつの間にかボクが41年前に経験したストーリーなど幻の逸話のようになり、美しくレストアされたマスタングで海辺の道路をドライブすることなんか夢物語となってしまった感がある。しかしだからこそ、マスタングは多くのアメリカ人にとって特別なモデルであり続けている。
いい機会だから告白してしまうが、ボクはいつか近い将来に少年の日にスクリーンを通して観て心奪われた、あの”ブリット”の68年型マスタング390GTファストバックを本気で手に入れたいと考えているのである。
よしおか和
1957年東京生まれ。1978年写大卒。
子供の頃、TVや映画を通して憧れたアメリカとオーバーラップするシーンを求めて、今も旅を続ける写真家。代表作は“ROUTE66~置き去りにされ た風景”。
尚、アメリカ車のクラッシックモデルについては超趣味人。
豊富なレストア経験を持ち、常に複数のアメリカ車と共に暮らす。現在は‘67ダッジ・コロネットRTでドラッグレースにもプライベート参戦中。 “A-cars”他アメリカ車専門誌ではライターとしても活動、 またこれまでに数多くのカーショウやレースイベントをプロデュース、ディレクションしている。