前回のマスタングに続きいて2台目に紹介するのは65年型のコルベット・コンバーチブル!これもまたボクにとっては思い入れの深いクルマのひとつだ。
近年ではC2と呼ばれて親しまれているモデルであり、これに纏わる思い出も沢山あるのだが、まずはコルベットというモデルのヒストリーを改めて解説してみることにしよう。
第2次世界大戦が終結して間も無くの話、アメリカには突然数多くのスポーツカーが走り始めた。それはどれも輸入車であり多くはジャガーやMG、トライアンフといったイギリス車だった。戦時中同じ連合国だったイギリスに駐留していたアメリカ軍の将校たちが向こうで乗り回していた愛車をそのまま故郷に持ち帰ったのである。
1940年代以前、スポーツカーに関しては完全に不毛の地だったアメリカとアメリカ人にとってこれはカルチャーショックであり、多くのCarGuyたちが興味を抱いたのは言うまでもないだろう。
そんな状況の中、「アメリカ製のスポーツカーを作ろう」と強い意志を示した人物がいた。50年代初頭にGMスタイリング部門を率いていたハーリー・アールだ。彼は当時シボレーのチーフ・エンジニアだったエド・コールを誘い、シボレー=大衆ブランドという既成観念を拭いたいと考えていたコールがふたつ返事でそれを承諾、そしてプロジェクトはスタートした。
GM社内ではプロジェクト”オペル”と呼ばれたこのプロジェクトは、新人のボブ・マクリーンをメンバーに加えて順調に進み、52年の4月には実寸大のクレイモデルが完成。これを見たGM社長とシボレーのぜネラルマネージャーは大いに気に入って、翌年の1月にNYで開催される”モトラマ”への出展が決まったのだ。
かくしてプロジェクト”オペル”はEX122なるコードネームで呼ばれ、いよいよ本格的にプロトタイプの製作が始動することとなる。アールとコールはシャーシにこだわり独自のフレームを設計し、当時の常識からすれば明らかに低い姿勢のクルマが、まるで宇宙船を連想させるようなデザインのプラスチックボディを採用して完成したのだ。
”ドリームカー”として”モトラマ”に出展されたEX122は多くのファンのリクエストに応えてその年のうちに市販されることが決まり、即ちそれがアメリカで初の量産スポーツカーとなるコルベットの誕生だったのだ。
しかし、コルベットはいくつかの問題を抱えていた。一番切実だったのはスポーツカーと呼ぶに相応しい性能を実現させることだった。ところでコルベット発表と同時にそこに大いなる可能性を見出しGMに入社した人物がいた。ゾラ・アーカス・ダントフである。スピード狂でレースの経験もある彼をアールは直ちにコルベットのエンジニアに任命し、そのリファインを命じたのである。
ダントフはサスペンションのセッティングの見直しから始め、V8エンジンの採用、マニュアルトランスの採用、デュアル・キャブレターの採用、独自のカムシャフトの開発、フュエル・インジェクションの開発など次々に手腕を発揮したが、本当の意味でスポーツカーらしいクルマを具現化させたのは第2世代となるスティングレイ(C2)を開発設計した時と言ってもいいだろう。
当初はミッドシップ・エンジンのスポーツカーとしてプロダクトされる計画もあったらしいが、基本的に保守的なアメリカ人の国民性をも考慮してフロントにV8エンジンを積んだまま理想的な重量配分を実現させていわゆるフロントミッドシップを作り上げた。
シャーシはフレームから一新され、サスペンションはフロントがコイル・スプリング式のダブルウィッシュボーン、そしてリアにも独立懸架を採用。トレーリング・アームとロワ・トランスバース・リンクでハブを支持し、スプリングは横置きのリーフという独創的で画期的な構造を持っていた。
ホイールベースはよりタイトな運動性能を目指して先代よりも4インチ縮められて98インチとなった。また、エンジンのマウント位置もドライビングポジションも全てが低く設定されたことで、ドライバーのレッグスペースが窮屈になるのを解消する目的からエンジンを1インチほどパッセンジャーサイドに寄りにオフセットしてインストールしたのが特徴だった。
スタイリングはハーリー・アールの後を受け継いでGMスタイリング部門のチーフの座に就いていたビル・ミッチェルの指揮の下で進められ、59年にレーサーモデルとして誕生し、後にショーモデルに転身した”スティングレイ・レーサー”が具体的なヒントとなり、その時にデザインを担当したミッチェルの部下、ラリー・シノダがこのC2に関しても大活躍した。
鋭くエッジを効かせたプレスラインがボディ全体を取り巻き、前後フェンダーのホイール・オープニング部分はすべてその下で処理されるという画期的なフォルムは、もちろん過去にはあり得なかったもので極めてセンセーショナルだった。ヘッドライトはリトラクタブル式が採用されたが、ユニット自体が180度回転して開閉するという斬新な仕組みだったことも特筆すべき点だろう。
ボディスタイルは従来のコンバーチブルに加えてクーぺがラインナップされたが、大胆なボートテール・デザインが採用されたエクステリアがまた印象的だった。そしてインテリアにもシンメトリックなツインドームのダッシュをはじめとして、これまた独創的なアイディアが随所に具現化されていたのである。
今回スポットライトを当てたのは65年型のコンバーチブルだ。実はこの年からコルベットは4輪ディスク・ブレーキ・システムを採用して益々スポーツカーとしての性能と格を上げた。なお現車はスモールブロックV8の327ユニットの中でもキャブレター仕様としては最強のオプションとなるL76を搭載し、その実力は圧縮比11.0:1で365hp@6200rpm、350lbs-ft@4000rpmというパワー及びトルク数値を誇った。ちなみにメカニカル・バルブリフターにハイリフトカムを採用しキャブレターはHolley製の4バレルとなった。
参考までに追記すると、それより更にハイパワーな機械式のフュエル・インジェクションを採用した327・L84がオプションリストには控え、その他にもこの年の途中から396cu.in.のビッグブロックV8モーターが登場してくる。それは翌66年型でまたしてもエスカレートして427cu.in.のハイパフォーマンス・ユニットへと発展を遂げた。つまりこの個体はそのV8パワーウォーズの始まりを告げたモデルと言っても良く、このL76に火を入れた瞬間にボクのハートにも火がついてしまった感があり、カメラの前でCOOLに装うのが実は大変だったことを告白しておこう。
ところで今やC2はヒストリックカーとしてのバリューがウナギ登りに高騰している。特にハイパフォーマンスな仕様のモデルでは現実的ではない価格が当たり前のようにまかり通っている。中には由緒正しきオートオークションでミリオンダラーに達するケースさえあり、投資対象として捉えられることも珍しくはなくなった。
その昔にはアメリカ車に対してそういう価値観が抱かれることなど全くなかっただけに、それはある意味大変喜ばしいことなのであるが、コルベットに限らずマッスルエイジのハイパフォーマンスカーを転がし、夜中の街道でイリーガルなストリート・レースを楽しんでいたボクらの世代のアメリカ車フリークにとってはなんとも複雑な心境である。
まあ、もうそんなことが時勢的に許されないのも充分に承知してはいるが、あまりに高価になり過ぎて気軽にあの桁外れのパワーを味わうことが出来なくなったのはやはりちょっと寂しい事である。と同時にこれとほぼ同じ時代の66年型コンバーチブル、427V8にマンシー4スピードMTを搭載したC2を所有していながら、ちょっとお金に困った時期にそれを安く手放してしまったボク自身の苦い思い出がなんとも悔しく思えるのだ。
さてと、悔しい話題で締めるのも嫌なので、最後に一つアメリカでの思い出を綴って終わりにしたい。
時は1998年、イリノイ州のある町で開催されたコルベットのお祭りにゲストとして招待されたボクは、ついでに足を伸ばしてケンタッキー州ボーリンググリーンにあるコルベットのアッセンブリー・プラントを見学した。
受付を済ませると通された部屋でまずは映画を見せられる。コルベットの歴史を解説した映画だった。そのあとで幾つかのグループに分けられてガイドに案内されながら生産ラインの各セクションを見学して進むのであるが、ボク以外はみんなアメリカ人の白人で、殆どが中高年、というか初老の夫婦だった。そのカップル達がみんな手を繋いでガイドの話を熱心に聞きながらコルベットが組み立てられていくのを楽しそうに見ているのだ。つまりコルベットというクルマは、子供達が手を離れて再び二人の時間を取り戻した世代の夫婦が、二人だけの時間を楽しむために買うクルマなんだとその時ボクは実感したのだ。その時にラインを流れていたのはC5だったが、きっといつの時代でもそれに変わりはないのだと思う。
コルベットはアメリカ人にとって唯一無二のスポーツカーであり永遠のドリームカーなのだ。そして年式やボディ形状や搭載エンジンなどに関係なく、いつでも、いつまでも彼らにとって特別なクルマであり続けるのだとボクは確信した。これまでの人生の中でもそんな場面に何度も遭遇しその度に感動させられてきたので、ボクはコルベットが大好きで溜まらないのである。
よしおか和
1957年東京生まれ。1978年写大卒。
子供の頃、TVや映画を通して憧れたアメリカとオーバーラップするシーンを求めて、今も旅を続ける写真家。代表作は“ROUTE66~置き去りにされ た風景”。
尚、アメリカ車のクラッシックモデルについては超趣味人。
豊富なレストア経験を持ち、常に複数のアメリカ車と共に暮らす。現在は‘67ダッジ・コロネットRTでドラッグレースにもプライベート参戦中。 “A-cars”他アメリカ車専門誌ではライターとしても活動、 またこれまでに数多くのカーショウやレースイベントをプロデュース、ディレクションしている。